向かい風を前にして、ランナーが学ぶこと。
雨が降っている日、雪が降っている日、そして、風が強い日だ。
追い風なら、むしろ望むところだ。それはいつもの自分以上に身体が軽く、蹴り上げるアスファルトはいつにも増して推進力を与えてくれる。
いや、むしろ追い風に気づかない事だって多い。今日は調子がいいじゃないか、足も身体も軽いぞこりゃ、今日は軽快だ。そう思った矢先、大抵の市民ランナーのいつものランニングコースには折り返しが存在する。いや、端的にいうと一方通行な片道切符はあり得ないのだ。折り返せば当然、今度は真逆の向かい風が待っている。そう、向かい風は追い風と表裏一体なんだ。陰と陽、悲劇と喜劇はいつだって隣り合わせに存在している。ただ、その影の存在があるからこそ、光が際立つということなのだろう。寒さを感じさせる冷たい風があるからこそ、暖かい太陽の光は我々の身体を包み込むように温めてくれる。それはそうだろう、そうやって、全身を吹き付ける追い風を肯定しなければ、我々ランナーは走るという行為自体を肯定し続けることはできないのだ。
とは言え、実際この「向かい風」はランナーにとって本当に厄介な存在だ。一歩でも長く、一歩でも速く走りたいのに、歯がゆいぐらいに己の着実な前進の努力を押し返そうとしてくる。だから思う、窓越しに揺れる木々を見ながら、風の強い日は、走りたくないな、と。
ある日のランニングのことだ。その日も当然、風が吹いている。厳密にいうと、私の近所のランニングコースは基本川沿いなのだ。風が無い日の方がレアだと言っていい。でも、追い風が前に進む身体中を押し返してくるあの感じを苦々しく味わうということは、それなりに風が吹いている日である。足の先から頭の先まで、全身隙をなく容赦無く吹き付ける風に対して、やや顎を引いて、まるで親の仇にでも出会ったのかのような形相で前を睨み続けて走り続ける自分がいる。そりゃそうだろう、頑張って前に歩みを進めているのに、平気な顔して押し返してくる厄介な奴がいるんだから。仕方ない、仕方ないのでこの身体、その追い風に預けてやる。我が体重の5%でいい、吹き付けて来る分、逆に支えてくれやがれ。そうやって、いつものランニングフォームよりも気持ち前かがみに走り始めたのだ。その全身に吹き付ける風に対して、むしろありがとうと言いながら身体を預けるように。疲れきった身体とともに、エアベットに倒れこむように。
そうやって、身体中に吹き付ける風を感じることによって、走るという反復運動を繰り返している自分の肉体に全神経が集中する。リズムよく前に後ろに行ったり来たりを繰り返すつま先、すね、ひざ、太もも。身体が丸まらないように腹筋に力を入れ、振り抜く両手は確かな形となってダイレクトに感じることができる。首から、顔全身で風を受け止める。なんだろう、今までこんなにも、自分の身体のパーツというパーツを輪郭を持って認知したことは、実は無かったかもしれない。自分という身体の、全1mm四方の小さい正方形単位で、身体の全身を風の力を利用して感じることができる。自分の身体は、いつもは当たり前すぎて認識することもない。足の小指をタンスの角にぶつけたとか、局所的な痛みで身体の一部に餌に群がる狼のように全神経が集中することはあるが、全身に満遍なく、そしてそれはある種の心地よさを持って迎え入れることのできる「全身への意識」というのは味わったことが無かったかもしれない。
そうやって向かい風に乗って走り、物理的存在としての自分を全身で知覚することで、生きている実感を確実に得られるのだ。それは人生において確実に何気なく、些細な出来事ではあるが、人類にとっては本質的に重要な何かなのではないかとも思う。
丘に登って、心地よい風を感じれば、我々は自然と手を広げてそれを全身で噛みしめるだろう。それは人類の全細胞にとって良質なエネルギーなのか、それともある種の脳内物質の分泌へ必要なトリガーなのか。ランナーは走ることで知るだろう。向かい風に立ち向かいながら知るだろう。我が身体の尊さと、生きているという実感の深さを。